Il Postino

イタリア映画「イル・ポスチーノ」

Massimo Troisiの主演で話題になったMichael Radford監督の作品です。

 

 手紙の日付からすると、時は1951年〜52年。戦後まもない頃、「共産主義」と「神」とがまだどうにかこうにか共存できた時代 − 共産主義の理想がまだ比較的その原型を保ち得たつかの間の時代です。

 敗戦の貧困にあえぐ中、多くの人々が人民の主体を標榜するこの新しい思想に希望を託しつつありました。共産主義者として祖国を追われたチリの詩人、ネルードが避難場所に選んだイタリアの小さな島の郵便局長も熱烈な共産党支持者でした。

 内気で無骨な島の青年、マリオは、父親の漁師の仕事がどうも好きになれず、ネルードを敬愛するその局長に雇われて郵便配達の仕事につくようになります。

 配達といっても宛先人はただ一人、島のはずれに住んでいるネルードだけです。たった一人だけのための配達人なんてすごいですね。世界各国から手紙が届くネルードはそれほど特別な人だということです。もっとも報酬はむろん雀の涙で、あとはチップだけです。

 ノーベル賞の候補になったという知らせもこのマリオが配達しました。

「ノーベル賞なんてすごい」と感嘆のまなざしをむけるマリオに、詩人は

「まだもらったわけじゃない」とクールな返事。

「断るんですか」マリオは目を丸くします。

「くれるというんならもらうさ」

 詩人は茶目っ気のある目をしてくすりと笑います。

 

 お金はないけれど、時間だけはたっぷりあるマリオはなんとなくこの偉大な詩人に興味をもち、彼の詩の本を買って読むようになります。最初はそっけなかった詩人も次第にうちとけて、けっこうまじめに詩のことを彼に話してやります。

「詩を解説することはできない。詩に語られている言葉は他の言葉で置き換えることはできないのだ」

 そしてマリオは彼からメタファー(隠喩)を学びます。 あらゆる事柄が何かのメタファーであると。えらい詩人の口から聞くはじめての言葉を単純なマリオは文字通り受け取っていきます。

「ではこの風もメタファーなんですか」

「ああ、そうだ」

「この波もメタファーなんですか」

「ああ」

「それじゃ、ええと、あの、その、つまり、この世界も何かのメタファーなんですか」

「!」

 無邪気に発せられたマリオの問いは詩人をどきりとさせます。

「あ、いや、おれ、変なこと言っちゃって……」

 馬鹿な質問をしたと照れるマリオに、詩人はまじめな顔で答えます。

「いや、そんなことはない。いいか。私はこれから少し泳いでくる。君のその質問には明日答えよう」

 けれども詩人はけっきょくその質問に答えていません。

 

 

  島はおりしも選挙戦の真っ最中で、島の顔役のコジモがあの手この手で人々を買収しようとしています。いくぶんヤクザっぽく見えますが、この映画の中で唯一スマートに身をこなしている都会的な人物です。相変わらず島に水道をひくことを公約にしていますが、誰も信じてはいません。

 ネルードや局長に影響されたマリオはコジモから自分に投票しろと言われても「おれは共産党に入れる」とはっきり答えます。内気なマリオのそんな態度はコジモにとって意外だったでしょう。

 さて、マリオはこれもネルードの詩に影響されたのかもしれませんが、酒場の娘に恋をします。

「一目ぼれか」とネルードに聞かれ、「いいや違う。10分ほどじっと見ていた」なんて律儀な答え方をするマリオです。

「彼女の名は?」

「ベアトリーチェ」

「そうなるとダンテだな」

「ダンテ?」

「ああ、ベアトリーチェに恋をして詩を書いた」

 マリオはダンテが気に入ります。その名を忘れないように手のひらに書こうとするのを見てネルードは手伝ってやります。

 マリオは彼女のために詩を書いてほしいと詩人に頼みます。

「詩というのは対象がなければだめだ。そんな見たこともない女のために詩は書けない」と、こういうとき詩人もけっこうまともに反論します。決してマリオを馬鹿にしないところがこの詩人のえらいところでしょう。ネルードはマリオの「そのぐらいの詩が書けないようではノーベル賞なんてとれっこない」という言葉にぐっと詰まってしまいます。  

 それはともかく、たとえ詩は借り物であってもマリオの熱意は本物に違いなく、見事ベアトリーチェの心をとらえることができました。二人はネルードに立会人になってもらってめでたく結婚式を迎えます。めでたいことは重なるもので、ちょうどそのときチリ政府の追放命令が解除されたという電報も届いて詩人は祖国に帰っていきます。

 1年ほどしてやっときた彼からの手紙。ベアトリーチェや局長など一同がわくわくしながら見守る中、しかし手紙を読み上げていくマリオの顔はくもっていきます。それは彼の秘書からの「残った荷物を送ってくれ」というそっけない事務的な文面でした。

「餌を食べた鳥は飛んでいくのさ」と辛口のコメントを発するのはベアトリーチェの育ての親、ローザ叔母。この言葉は以後ことある毎に繰り返され、温厚なマリオもとうとう「その鳥の話はやめてくれないか」と頼みます。しかしこの言葉、なかなか含みがありますね。

 ともあれ、一時はがっかりしたマリオですが、気を取り直して今度は自分で詩を書き始めます。いつしか彼もネルードの語ってくれた島の美しさに気づくようになり、波の音、風の音、夜空の音(遠くの犬の声なんか入れて)、そして生まれてくる子供の心音などを録音してネルードに送ろうと考えます。彼の詩作も人々に認められ、共産党大会でそれを朗読するまでになります。

 しかし悲劇が訪れます。彼はその共産党大会で暴動に巻き込まれ、子供の誕生も見届けぬまま帰らぬ人となってしまうのです。父親を亡くして生まれた子供は人民の子にちなんでパブリート(日本語ならさしずめ民夫ってとこでしょうかね)と名付けられました。

 詩人は決してマリオのことを忘れていたわけではありません。数年後、彼はマリオを訪ねてまた島にやってきました。けれど、詩人はもうマリオに会うことはできません。

 映画はひとり海岸を歩く詩人の姿で終わります。この世界もまた何かのメタファーなのか。マリオの質問の答えを詩人は見つけたのでしょうか。

         

 

  ドラマチックなストーリーは何もありませんが、ひとつひとつの濃やかなエピソードが印象的でした。

 たとえば、郵便局の中で局長とふたり手紙を整理しているとき。

「ドンナ、ドンナ、ドンナ、これもドンナ(女)だ」

 ネルードに来る手紙はみんな女性からのものなので、マリオは驚きもし、またうらやみもします。詩人というのはこんなに女にもてるのか。が、局長はマリオのそんな低次元の解釈など受け付けず、ネルードのことを「人民の詩人」だと主張してやみません。

 マリオとは違う意味で局長にとってもネルードはあこがれの人なのです。だから、署名をせがんだマリオに詩作の邪魔をするなとたしなめるくせに、マリオが彼と親しくなったのをみると、自分もまた自分の本にも署名をもらってくれと頼んだりします。

 それにしても「人民の歌」と「恋の歌」が両立しなくなるのはいったいいつの頃からでしょうか。 

 

 「ベアトリーチェのことを詩に書いたのはダンテだけじゃない。ダヌンツィオも書いている」と言ったのは島のボス、コジモです。コジモにこういうことを言わせているのが芸の細かいところですね。選挙のために姑息な手段を使うコジモですが、この人物だけが唯一現代につながるキャラクターであって、島のみならず国を開発や近代化に向かって駆り立てる層を代表しています。マリオは「おれはダンテのほうが好きだ」とダンテへの忠誠を示しますが、むろんマリオにその違いがわかっているわけではありません。

 コジモ的人物はともすれば悪の代表に単純化されてしまうきらいがありますが、その一方、純朴なマリオはその純朴さゆえに生きていれば彼もまたこちこちの教条主義者になっていたかもしれません。(あるいは彼がまだその感性を保っているとすればこちこちの教条主義者に糾弾される側になっていたかもしれません)。それを示唆するようなエピソードがあります。  

 アサリ一盛り300リラで売っていた漁師に客が(これはコジモ本人だったかも)「高いな」と値切ります。「まけるよ」と漁師が応じかけたとき、横からマリオが

「300リラはちっとも高くない。値切るのは搾取だ」と口をはさみます。

「搾取なんてするのはいやだから、それじゃやめとく」と言って客は帰ってしまいます。

 漁師は「余計なことをしてくれるな」とマリオを責め、マリオはしょぼんとします。

 それからちらっとしか出てきませんが、なかなかいい味を出していると思ったのが神父です。ベアトリーチェを育てている酒場の女主人ローザは、姪が変な手紙をもらって熱くなっている(ローザの言葉によると「いんゆ」されている)と、神父のところに駆け込みます。字の読めない彼女に代わってそれを読みかけた神父は強烈なショックを受けます。

「裸体の君の……」

 それはネルードが妻のマティルダに捧げた熱情的な詩で、後で知ったネルードは「私は盗作など認めたおぼえはないぞ」と抗議しますが、「できあがった作品はみんなのものだ。誰でも使っていいはずだ」というマリオの主張に苦笑するしかありません。

 ナイーブな若い神父は「裸体」という文字だけでもう心臓がどきどき。後になって二人が結婚するときも神を信じない共産主義者が立ち会い人になることを一時は拒否しようとしますが、教会に入ってきたネルードが熱心に祈っている姿を見て結局は折れたようです。そして結婚式のときには誰よりも大きな声で乾杯をとなえ、陽気にワインを飲み干していました。なんか面白いキャラクターでしたね。

 人々がまだ本当に貧しかったあの時代は洋の東西を問わずそこには何か通底するものがあるようです。特に最後のほうの島の祭りの場面では妙な懐かしさを感じました。その祭りでは行列の最後にマリア像を船に乗せて流すのです。これはもう日本の祭りとまったく同じ意味でのお祓いですね。ぎょっとしたのはそのマリア像が縄で縛られていたことです。まれですが、日本にも似たような儀式があったように思います。

 形として示される神、あるいは神と呼ばれるものの姿はそれぞれ違っていても、人類の根底に流れる宗教観というのは小手先の理屈ではとうていいじることのできないものだということを感じさせられます。★                                                

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